代表の【情熱・激闘プロフィール】

代表 鈴木洋二こんにちは、保険サポートセンター代表の鈴木です。

突然ですが、私は『商売は信用がすべて』と思います。私は最近、信用 = 会社の考え方 = 代表の生き様の投影だと思うようになりました。

そこで少し長文・駄文になりますが、この機会に僕の生き様を書いてみようかと思います。まだまだ発展途上ではありますが、少しでも共感頂ければ幸いです。

お忙しいとは存じますが、弊社サービス等のページを読まれる前に、ぜひご一読ください。

1.幼少時代僕の生まれは愛媛県の新居浜という町です。当時は人口13万人で、愛媛県では県庁所在地の松山(30万人)についで2番目の街でした。住友財閥の工業都市で、別子銅山(公害で有名)があり、まさに「住友」の街でした。

親父は住友化学の設計技師で、最近話聞いたところによると(親孝行のつもりで、携帯電話を送って毎日話しています)、終戦後16才から働き始めて、54年位設計一筋の人生を歩んできた人です。寡黙で趣味といったら麻雀くらいしか知りません。

そんな職人気質の親父ですが、不思議と怒られた記憶がありません。子供時代の僕を可愛がってくれて、工場勤務が終わる5時すぎにはもう帰宅していて、よくキャッチボールの相手してもらいました。球技も水泳も上手だった親父の影響で、僕もスポーツは何でもこなしていたようです。 (今年2月22日親父が永眠しました)

2.第1の転機(中学生時代)中学までは、品行方正、スポーツ万能、親(特にお袋)の言うことはよく聞き、学業も部活のテニスも成績は3番以内をキープ。英語や国語、社会は得意ではなかったけど、音楽、技術家庭、体育、数学、理科は得意でした。女生徒の憧れの的?的な存在だったのではないかと思います。先生の受けもよくて、何か行事があると引っ張り出されてました。

ところが、長髪OKだったと言う理由で高校は当時としては珍しく越境して進学校の新居浜西高に通うようになって最初の中間試験で100番くらいになり、かなりショックを受けました。この時、世の中の広さを痛感しました。

その後も総体や国体出場レベルであったテニスを続けていたのでほんとにと勉強する暇がなく、成績はなかなか上がらずにいました。しかし、お袋に「大学は国立しかやれない」と言われていたので、こりゃあかんと思い切ってテニス部を辞めることに。その時テニス部の部長に殴られたのは、今では体罰かもしれませんが昔はよくある話ですよね。

テニスを辞めてからの高校生活後半は受験一本で、家と学校の往復。今から思えばよく勉強したと思いますが、そのころ遊んだという記憶が殆どありません。味気ない高校生活でした。

3.第2の転機(高校生~大学生時代)高校は、なんとか理系の選抜クラス(50番以内ギリギリ)に入り、「阪大は難しいが神戸大なら何とか」ということで受験しましたが、見事に不合格!結局立命館大へ通うことに。京都の烏丸鞍馬口に下宿しながら大学生活をスタート。当時は志望校に入れなかったので何となく「敗北者」という気持ちでした。

高校時代の勉強一筋の生活から、何をやってもいいという生活でしたが、僕にはこれが物足りない。それに友達がなかなかできない中で、浪人しながら一生懸命勉強している高校の同級生が周りに5、6人いたこともあり、「このままじゃだめだ」と考え直しました。

せっかく立命館大へ現役で合格したのに、親父に頼み込んで夏休みで中退しました。当時の教授には「数学は100点なのにもったいない」と言われたことが救いでした。もしかしてちゃんと立命館卒業しておけば、ちょいと人生変わっていたかもしれません。

結局、半年浪人して神戸大に合格したのは幸運でした。その当時は、国立大に行くことがゴールみたいで、あまりその先のことは考えていませんでした。親父のように、設計一筋で人生終わるんだなと、思い込んでいたような節があります。

4.第3の転機(社会人時代)大学は工学部の機械科、就職さえ間違わなければ、今頃F1のエンジン設計でもしていたと思います。保険業界に入って、振り返ると不思議な話の一つです。

大学を卒業した1951年はちょうどオイルショックの後で就職難の時代。加えて当時の僕は就職には無頓着で活動をしてなかったのと卒業研究が忙しいという事情がありました。そこで、本社が愛媛県にあるという理由だけで国光製紙という会社を受けようと思ったところ、「ユニ・チャーム(当時は聞いたこともない会社)で募集を受け付けている」と言われ、何の会社かも知らずに受けてみたら、なんと内定。後で生理用品を作っている会社と聞いて、友達、家族から「やめろ」と言われたけど、故郷の愛媛へ帰れればいいかと思い就職したのでした。

ところが何のことはない、配属は大阪だったのでした。大学の友達には「もう会えないから」と送別会をしてくれたのに、1週間後に「やぁ」って大阪に戻ったもんだから大ひんしゅく!教授からも「大学で何勉強したんだ」とさんざん言われました。

さてそのユニ・チャームですが、人と話すのは苦手な人が営業するのは苦痛そのものでしたが、デスクワークじゃなくて仕事時間中に外をうろちょろできるという営業の仕事が気に入ったのか結構長続きで、何だかんだと19年も勤めました。感動したのは入社して半年目の10月に会社からハワイに連れて行ってくれたこと。凄い会社だなと思いました。お陰で貯金も何もできませんでしたが、、、

ユニ・チャームでは、仕事する→成果がでる→会社が大きくなる→役職が上がる→給料が上がる、と刺激的な時間を過ごしました。地方の小さな会社が一部上場会社になり、業界をリードするような企業になった時期に所属していたことを誇りに思っています。入社したての若造が代理店の幹部や社長・経験豊富な営業の方を捕まえて偉そうなこと言っていたことを思い出すと冷や汗ものです。

今だから思うことは、当時ユニ・チャームという会社は中小企業だったけど、高原会長の志の強さと真摯さに部下がついてきて、業界のリーダーたらんと皆が信じて行動していたから強くなれたということです。そして真のお客様志向が社員一人一人まで徹底されていたために、トイレタリー業界の中で大手企業と競争しながら常にNo.1として生き残ってきたと思います。

このときに培ったものが今のPIAの基礎になっていると感じています。

<閑話休題>ユニ・チャームという会社は転勤の多い会社で、私は大阪を皮切りに、京都、滋賀、大阪、名古屋、東京と都会を転々としました。大阪時代は、奈良、和歌山も担当、名古屋時代は愛知、三重、岐阜、静岡へも、東京に来てからは、チェーンストア部時代は西友、ファミリーマート、ファルマ(ドラッグチェーン)AJDで全国を飛び回ったし、最後の営業企画部では、全国の支店回りといろいろ仕事をさせて貰いました。
当然ながら転勤時代には家を転々とした訳ですが、大阪千里丘の寮、江坂のアパート2DK、山科のアパート2DK、茨木(大阪)で初めて3LDKのマンションを購入、名古屋の一社の寮、ほら貝の借家、横浜の借家、横浜で4LDKマンション購入といろんなタイプの家に住みました。
このときに必ず付いてきたのが「建物の火災保険」「家財保険」で、契約の度に訳もわからぬまま不動産業者の言われる通りに判を押していました。当時は仕事に忙しく吟味する余裕がありませんでしたが、今思えば保険に対する疑問やこの業界でやっていこうと思ったルーツがここにあると振り返っています。
ちなみに、あなたは一戸建て派ですか?マンション派ですか?私は転勤を繰り返してきた結論として、メンテナンスが大変で夏場は毎週雑草取りしなければならないし冬が寒い一戸建てより管理費や修繕積立金ははかかるけど安心なマンション派であり、今は横浜を終の棲家にしようと、本籍地も現在のところへ変えています。

5.第4の転機(勤め上げてきた企業から独立志向への転換)ユニ・チャームでの最後の仕事は営業企画部でした。全営業に対して方針を出したりサポートする仕事です。役職も上がったこの頃になると会社の将来を俯瞰的な目で見るようになっていました。しかし、自分より10才以上も若い会長の親族が取締役に就任したとき、これ以上の出世は難しく目的を見失ってしまいました。しかも上述の転勤生活から横浜に本拠を置き身を落ち着ける気持ちでいたため、次の転勤があった場合には単身赴任しなければなりませんが、「家族は一緒に生活するべき」が持論でしたので凄く抵抗がありました。

このようなジレンマを抱えていた時期に、幸いにもソニー生命から声を掛けて頂き、「仕事は厳しいけど、転勤はありません」と誘われて、思い切って転職することに決めました。どうせ転職するならなまじ知らない業界の方がゼロから一生懸命頑張れるだろう思った次第です。

鎌倉八幡宮へ初詣に行った折、小町通りの喫茶店で「転職するよ」って家内に言ったらあきれていました。「馬鹿じゃないの」って・・・。そのときはもう、強い意志でやることに決めていたので、必死で家内を説得し、渋々了解してもらったのを覚えています。上場企業の安定路線から敢えて身を投じることを理解してくれた妻には感謝しなければなりません。

6.第5の転機(保険業界への初挑戦)ソニー生命時代、あの盛田さんの「保険を変える、ソニー生命が変える」というメッセージの下、多くの優秀な方が集まり一丸となっていたことを思い出します。当時は、スターのごとき凄い営業の人がいっぱいいて、いつか自分もそういうスターの一員になれたらいいなと思いながら仕事していました。ユニ・チャーム時代から何事も全力投球で仕事をしてきたことで、ソニー生命に転職してからもありがたいことに前職の同僚達が支援してくれました。その結果、1年目で110件の契約をいただいて新人賞もいただくことができました。

しかしそれでも全社員の平均値までいきません。当時営業社員は1700人、凄い会社に入社したと少し後悔しました。しかし盛田さんがいつも言われていた、「飽くなき努力をしなさい!」「感性を磨きなさい!」「あなたたちはアントレプレナーなのだから成功しなきゃね!」というメッセージを思い出し奮闘しました。

保険業界は一生懸命お客様に尽くし感謝された数が成果となって自身にも反映されます。これほどやりがいのある仕事はあるだろうかと、まさにソニー生命時代の9年間で保険の営業が「天職」と思えるようになりました。 一人一人のお客様の笑顔を見られるのはすごく楽しいし、契約いただいた時は常に「最後までフォローするんだ」と、身が引きしまる思いでした。 

しかしソニー生命から盛田さんがいなくなったあたりから新製品がでなくなり、お客様に提案する保険商品が必ずしも生保業界No.1ではなくなってきた時、「ソニー生命1社ではもうお客様に満足頂けない時代になった」と思うようになります。それと同時に、「複数の保険会社の優良な商品を取り扱い、お客様の細かなニーズに応える会社を作りたい」つまり乗合代理店として独立しようと決意しました。すべてはお客様に最善の商品提案ができなければ、真のお客様志向ではないと。

そこで一念発起して乗合代理店として独立することになります。

7.第6の転機(独立に向けて)実は独立はいきなり現在のPIAではなく、仲間と作った別会社でした。まずは乗合代理店として複数の保険会社(保険商品)を取り扱うべく、生命保険だけではなく損害保険も視野に入れて保険会社と交渉を行いましたが、これが凄く大変でした。

生命保険各社は私がソニー生命出身ということで概ね好意的に代理店取引を開始してくれましたし期待もしてくれました。ところが損害保険各社の交渉は大変でした。保険業界では生命保険と損害保険とは実務においてまったく別の世界であり、生命保険会社出身の営業は損害保険なんて真剣に扱わないだろうと思われ、代理店取引の交渉は難航を極めました。

その他、当然独立に必要な会社経営、営業活動、部下指導と、1年目は寝る暇なしの状態であっという間に過ぎていきました。おまけに住んでいる横浜のマンションの管理組合で理事長まで引き受けて、土日も休みなしの1年が続きました。

8.第7の転機(マンション保険の衝撃と損害保険への目覚め)ところで、このマンション管理組合の理事長をやっている間、マンション管理組合の仕組みや居住者間の合意形成の取り方を勉強しつつ、マンション共用部分の火災保険を見直しすることとなりました。ソニー生命では生命保険一本でしたので、損害保険しかも分譲マンションの保険は初トライです。

これまで一般的に「マンションの損害(火災)保険」というと、管理会社がそのまま代理店となるか、管理会社と紐付きの代理店が紹介され、代理店契約している1,2の保険会社の商品を管理組合(理事会)へ提案しています。そして保険に関して無知・無関心な理事会が比較検討することなく承認する、と言うのが当たり前でした。

この慣習を打破するとどんなことが起こるのか、、、そこで自分の居住するマンションでは、必要でない補償を外したり割引のある長期契約にしたり、複数の保険会社から同条件で相見積もり取ったところ、なんと保険料が現行比で40%も下がりました。

まさに衝撃的でした。そしてこの時初めて、損害保険は契約の仕方でこんなにも違うのだと実感し、これからは損害保険を中心に、特にマンション管理組合の火災保険の見直しを中心にやってみようと思った瞬間でした。その後もマンション管理組合の火災保険を見直してほしい相談が重なりいずれも保険料が現行比で30%も安くなりました。この時、現在のPIAの営業方針の原型ができたと思います。

9.第8の転機(思わぬ長期入院が事業計画作成の転機に)さて、ソニー生命から独立しSSMを立ち上げた1年目のある日、足が象の足のようにむくんでしまい、おかしいなと病院で診てもらったら、「明日から入院!」と通告されました。腎臓が悪くなっていました。それから2カ月、病室で籠の鳥の生活が続きました。人生で初めての長期入院、それに、いつ退院できるか、社会復帰できるのか、という不安、そもそも治るかどうかも分からないという不安は、今も忘れません。

しかし、長期入院して良かったことが二つあります。一つは、「まとまって休める良い機会ができた」ことでした。昼間は契約の提案書作成、夜はお客様にフォローの電話をしつつ、今までの経験と志と想いをまとめて、事業計画を作りました。これが、現在のPIA設立の骨子になっています。人生初めての長期入院で、考える時間が取れたのは最初で最後かもしれません。 

もう一つは、自分が「医療保険」に契約していて、保険を活用できた(体験者になれた)と言うことでした。入院期間中の治療費の心配をすることなく、家族に余計な心配をかけずに済みました。私は体力に自信があっただけに、自分が大きな病気になる経験をしたことで、「万が一」ってホントにあるのだ、としみじみと実感し、その後の営業活動では「医療保険」と「がん保険」はお客様の「万が一」を考え、本当にしつこく勧めるようになりました。

僕の大学時代の親友は癌(がん)で亡くなりましたしユニ・チャーム時代の尊敬していた上司も同じくガンで亡くなりました。「医療保険・がん保険は必要ない」と主張するファイナンシャルプランナーもいますが、私は絶対必要だと確信しています。病気になった経験のある方にしかわからないと思います。

10.保険代理店を立ち上げて生命保険、損害保険を扱う代理店になって数年経ちましたが、まだまだ複数の保険会社を扱いお客様に比較提案できる代理店は少なく、しかも生命保険と損害保険の両方を扱う乗合代理店は本当に少ないのが現状です。また世間にも「保険は比較すれば安くなる」という他の業界では一般的なことがなかなか認知されていないのも現状です。多くの保険代理店は1社の保険しか扱っていません。お客様にとってはずいぶん不便な業界です。

お客様にとって、一つの代理店、例えばPIAに駆け込んで頂ければ生命保険も損害保険も多数の保険会社の商品説明を受けることガできて、自由に選択できるようになる時代がくれば最良だと思います。かつて在籍していたユニ・チャームのトイレタリー業界では自由競争が進んでいて、一個が数百円単位の商品がスーパーやコンビニで複数から選択することができます。

一方で、長期的に保険料が発生し、生涯コストで言えば最も高い買い物の一つである生命保険や損害保険の業界には、思ったほどの競争原理が働いていません。私は「一つの代理店で保険商品を自由に選べるのが当たり前の時代に必ずなる!」と信じて疑いません。私がこの業界で本気で頑張ろうと思ったのもユニ・チャームでの自由競争を勝ち抜いてきた経験があるからです。生命保険・損害保険業界に革命を起こし、業界No.1になろうと決意しています。

生命保険・損害保険の業界で生き残り、発展することは自分達(PIA)の為だけではありません。大事なお客様を守るために、PIAはいつまでも成長発展しなければなりません。それに、「私はPIAで契約している」とお客様に胸を張って頂けるような、そんな会社にしたいと思っています。

最後に今後の展望や想いについては『代表ごあいさつ』ページをご覧ください。

ここまで読破できた方はおられるのでしょうか?もし、最後まで私の話にお付き合い頂いた方には、深く、深く感謝致します。無駄な時間を・・・・と思われた方には深く陳謝するとともに、私の生き様・情熱を汲み取って頂ければ幸いです。ありがとうございました。

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